三行社説 2006. 3
3月9日 (木)  「ゆとり教育」の功罪

「あけぼの」4月号に寄稿した文章を載せます。
与えられたテーマは、公立校教育でした。

もう少し説明をつけたかった箇所もあるのですが、
400字詰め原稿用紙3枚以内とのオーダーがありました。
「三行社説」では、そうした部分の引き伸ばしをしたかったのですが
スケジュールと体力の都合上、原稿をそのままUPすることとなりました。



「ゆとり教育」の功罪


 近頃、教育を巡る話題が目白押しである。
公立中高一貫校の出現、学校選択制(越境入学)を認める地方自治体の増加、
公立校での教諭資格取得のための年齢制限の引き下げといったニュースが連日伝えられている。

 中でも瞠目に値することは、大手進学塾の講師が公立校に招かれ、
定期的に授業を担当するケースが増えつつあることだ。
この現況の到来を、現場を預かる教師の質の低下が原因と嘆く向きは依然強いが、
公立校と塾の間に長く深く流れていた、
まるで米ソの冷戦を思わせるような重い空気が雪解けの時期を迎えたことは、
今後の教育事情に大きな刺激をもたらすだろう。
公立校といえども、特色が示せなければ地域から選択されない。
いよいよ公立校も競争の時代、人材育成のためのサービスを供給する機関として
本格的な変化と対応を求められる時代に突入したのだ。

 では、一時はまったく動向がなかった教育界は、なぜ突然と展開し始めたのだろうか。
その事情の裏には、学力低下を導く悪しき指針とのレッテルを貼られ葬り去られた
「ゆとり教育」の功罪が見え隠れする。

 「ゆとり教育」が施行後わずか3年で幕を閉じる結果となったのは、
未完成品の導入を強行に推し進めた文科省にほかならない。
学校は完全週5日制という新体制への順応に加え、
抽象的な理念の具体的目標やその実現方法を半ば丸投げされた。
試行錯誤のなか教科研究を進める学校と、そうでない学校とが出現し、
教育に温度差と疑心感が常に生じてしまったことが撤退の理由である。
こうした成熟性を欠く議論に学校や児童生徒を巻き込んだことは「ゆとり教育」の最大の罪であった。

 最大の功労は、およそ50年続いた中央集権支配による「閉じた教育」の殻を破る前例を
作ったことである。長きに渡り、学習指導要領は教育の上限基準を定める法律であった。
それを超えて各学校が自律的に年間教育計画を練り上げることは不可能に等しかった。
しかし「ゆとり教育」の導入に際し、現場から疑問や苦渋の声が噴出すると、
文科省は頑なに守ってきた「上限基準」を「最低基準」に一転させ、
指導要領の具体的な取り扱いについては
「各学校における弾力的な取り扱い」が可能であると認めざるを得なかったのである。
この発言は、教育が地方自治・学校自治に移行する歴史的な転換となった。
皮肉な形だが、結果的にこのことが現在の教育界の変化の源となり、
来年施行予定の「ポストゆとり主義」学習指導要領の基盤となった。

 次期指導要領の基本理念は「言葉の力」となった。
音読や根拠記述などを通して子供たちに豊かな人間性や生活力が根付くかどうかは、
現場教師の決断と創意と努力にかかっている。
習熟度別学習、少人数学級、補習のすすめなどの学内目標に加え、
家庭や地域の教育力の回復という手付かずの問題もある。
学校と教育を心から愛する人だけが
教師として残れる時代が目前に来ているように私は思う。




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